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武岡 隆ブログ


WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE

武岡 隆ブログ

本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。

まだ名乗っていない人物を、地の文はどう呼ぶか

「男が入ってきた。」 物語の中で、まだ名前の分からない人物を登場させるとき、地の文はひとまず何かで呼ばなければならない。「男」「客」「背の高い人」。

いずれも名前が出るまでの仮の呼び名に見えるが、互いに置き換えても同じになるわけではない。「男が入ってきた」と書けば、地の文はその人物を性別によって捉えている。

「客が入ってきた」なら、入ってきた場所との関係が先に示される。店なのか、家なのかは前後の文章によるとしても、その人物は迎える側ではない。「背の高い人が入ってきた」では、語り手か視点人物の注意が、まず身長へ向いている。

人物が行ったことは、どの場合も「入ってきた」で変わらない。ところが、読者が最初に受け取るものは違う。客と呼ばれれば用件を持っているように見え、背の高い人と呼ばれれば、その高さが後の場面に関係するのではないかと考える。

書き手にそのつもりがなくても、名前の代わりに置いた特徴は、読者にとって最初の手がかりになる。ここで気になるのは、その呼び名が誰の知識を表しているかである。

地の文が名前を伏せていても、語り手まで名前を知らないとは限らない。語り手は知っているが読者にはまだ渡さない場合もあれば、ある人物の視点に寄り、その人物が分かる範囲だけを書く場合もある。

後者なら、「客」という語にも知識が要る。その場所を訪れた人だと分からなければ、客とは呼べない。「制服の人」と書くなら制服は見えているが、職業までは特定できていない。

「誰かが立っている」なら、人であること以上をまだ判別できない。名を伏せることと、何も知らないことは別である。反対に、視点人物がよく知っている相手なのに、驚かせるためだけに「男」と呼び続けると、不自然さが出ることがある。

顔を見ればすぐ分かるはずなのに、地の文だけが認識を遅らせているからだ。正体を隠す文章では、読者に何を知らせないかだけでなく、その場にいる人物が何を知っているかも揃っていなければならない。

名前が出たあとの呼び方にも、その差は残る。たとえば本人が名乗った直後から地の文が名前で呼び始めれば、名乗りは人物を識別する情報として受け入れられたことになる。

名乗ったあとも「男」のままなら、聞き取られていない、信用されていない、あるいは語りがまだ距離を置いている、といった読み方が生まれる。呼び名の切り替わる地点は、単なる表記上の都合ではない。

もちろん、最初に書いた特徴を必ず伏線にする必要はない。背が高いという印象だけで終わる人物もいる。ただ、「背の高い人」と書いた時点で、読者にはほかの特徴より身長が先に渡される。

その順番まで無かったことにはできない。呼び名は、情報を足すだけでなく、いったん見えた特徴を引っ込めることもある。「背の高い人は窓辺に立った。

やがて、その人は時計を見た」と続けば、二度目の「その人」は身長を繰り返さず、同じ人物だとだけ示す。一方、前触れなく「あの人はまだ来ない」と書けば、語り手か視点人物には指し示せる相手がいるのに、読者には名前も立場も渡されていない。

「あの人」は情報が乏しいから無知なのではなく、知っている者にとって説明の要らない呼称にもなる。名前で呼ぶのを避けているのか、思い浮かべるだけで通じるほど近いのかは、周囲の文から決まる。

呼称が人物像を狭めるのではなく、説明を省ける関係のほうを浮かび上がらせる場合もある。

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