WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE
武岡 隆ブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。
AIの要約に残らなかった一文を読む
創作中の文章をAIに要約させると、元の文にあった一文がいくつも消える。短くする以上、それ自体は当然である。私が気になるのは、筋が間違っている箇所より、筋はきちんと通っているのに残らなかった一文の方だ。
要約には、誰が何をして、状況がどう変わったかが残りやすい。一方、人物が返事の前に見せた仕草や、その場がどのように見えていたかは、出来事の進行に直接関わらなければ省かれる。
そこだけを見れば、削除は妥当である。なくても話の順序を説明できるからだ。たとえば架空の一文として、人物が返事をする前に椅子へ座り直した、と書かれていたとする。
その動作によって返事の内容が変わるわけではない。要約なら「人物は承諾した」で済む。しかし元の文章では、座り直す時間が承諾の前に置かれている。
ためらったのか、姿勢を整えただけなのかは決められていない。その決められていなさを通ってから、読者は返事を受け取る。風景の一文にも似た働きがある。
部屋の明るさや道の広さを書いても、事件が進まないことはある。その描写によって、人物がどれほどの範囲を見ているのか、次の動作までにどれほどの時間があるのかは変わる。
風景は舞台の説明であると同時に、読む速度を調整している場合がある。ただし、仕草が人物の内面を一つに決めすぎるなら、間を生むより説明を重くする。
風景も、すでに分かる情報を増やすだけなら、読む速度を変えるというだけでは残す理由にならない。文章の間は、空白だけにあるのではない。短い動作を一つ挟むこと、景色へ視線を移すこと、段落を替えることでも生まれる。
要約はそれらを因果関係へ組み直すため、元の文にあった遠回りが見えにくくなる。出来事が同じであっても、返事がすぐ届く文章と、別の一文を通って届く文章では、人物の受け取られ方まで同じとは限らない。
もちろん、要約から落ちたものをすべて大切に扱う必要はない。単なる重複もあれば、書き手が雰囲気を足したくて置いただけの描写もある。消えたという理由だけで価値を与えれば、削れない文章になってしまう。
AIが残さなかったことは、その一文が必要だという証明ではない。そこで私は、消された一文そのものを褒めるより、前後を直接つないでみたときの変化を見る。
人物の判断が急に見えないか。会話が必要以上に滑らかにならないか。視点が同じ場所に固定されないか。
反対に、何も変わらないなら、その一文は元の文章で役割を持てていない可能性がある。この比較は、AIの判断に従うためのものではない。要約が拾った部分と落とした部分の境目を見ると、返事までの時間や判断の保留が失われたことで、前後の読み方がどう変わるかが見えてくるからである。
仕草を残したいのなら、それが人物の状態として読める位置にあるかを確かめられる。景色が必要なら、何を見せるための描写なのかを考え直せる。不要と判断する場合にも、ただ短くなったからではなく、抜いたあとを読んで決められる。
二つの発言の間から一文を外した途端、次の返事が早すぎることがある。そのとき残らなかった一文が支えていたのは、筋立てではなく、返事が届くまでの時間だったと分かる。
新しい記事をメールで受け取る
武岡 隆の新しい文章が公開されたとき、メールで静かにお知らせします。
登録料・購読料はかかりません。メールアドレスはブログ更新通知のためだけに使用します。いつでも解除できます。