WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE
武岡 隆ブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。
「さようなら」に残る、「そうであるなら」という別れの条件
「さようなら」という挨拶には、別れを直接表す語が入っていない。このことが、私には気になる。「また会いましょう」なら再会を述べ、「お元気で」なら相手の無事を願っている。
ところが「さようなら」は、その形だけを見ても、別れるとも去るとも言っていない。「さようなら」は、「左様ならば」に由来するとされる。「左様」は「そのよう」、「ならば」は条件を受ける表現である。
今の言い方へ近づければ、「そうであるなら」「それならば」といったところだろう。これは本来、次に何かが続く形である。「そうであるなら、私は帰ります」「それならば、ここで失礼します」というように、受け止めた状況を前提として、その後の判断や行動を述べる。
別れは「左様ならば」の意味に含まれていたのではなく、その先に続く部分が担っていた。それが別れ際に繰り返し使われるうち、後半を言わなくても場面が補うようになったのだろう。
「それならば、これで」「そういうことであれば、ここまでに」と続けるはずのところを省き、前半だけで次の行動まで伝える。やがて、その形そのものが別れの挨拶として定着した。
ここで面白いのは、別れを一方的に宣言する言葉から始まっていない点である。まず「左様」と、目の前の事情を受ける。話が済んだ、時刻になった、どちらかが移動しなければならない。
具体的な事情は場面ごとに違っても、「そうであるなら」と一度受け止め、その結果として別れへ移る。もっとも、「左様」と受けることは、相手の考えに賛成することとは限らない。
「そういう事情なら仕方がない」という場合もあれば、納得しきれないまま区切る場合もある。条件として認めることと、気持ちよく同意することは別である。
「さようなら」は、その差まで整えてはくれない。現在の「さようなら」は一語の挨拶として使われるため、口にするたびに「左様ならば」を意識するわけではない。
むしろ、はっきりした別れの響きを持つ語として受け取られることが多い。語源を知らなくても使え、後ろに文を足せばかえって不自然になる。それほど定型句としてまとまっている。
それでも、語の中には「なら」が残っている。「なら」は、すでにある事情を受けて、その先へ進むためのつなぎ目である。別れをゼロから持ち出すのではなく、ここまでの成り行きを条件にして次へ移る。
その組み立てが、今では一語になった挨拶の内側にある。条件表現が単独で別れの挨拶として働くには、語の意味だけでなく、それが会話のどこに置かれたかが手掛かりになる。
たとえば、話の途中で「それなら」と言われれば、聞き手は「どうするのか」という続きを待つ。一方、用件が尽き、やり取りが終端に近づいた位置で「さようなら」が置かれると、その後に別の判断が述べられるとは受け取りにくい。
聞き手は、直前までに共有された事情と発話の位置を合わせ、続くはずの内容を「会話を終える」「その場を離れる」といった行為として補う。ここで補われるのは特定の一文ではない。
帰るのが話し手なのか、見送る側が残るのかが違っても、互いのやり取りを閉じることは分かる。条件文の空白を埋めるのは辞書に隠れた後半ではなく、別れ際という場面そのものなのである。
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