WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE
武岡 隆ブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。
同じ最後のページでも、「読み終える」と「読み切る」
本の最後のページまで来たことは、「読み終えた」とも「読み切った」とも言える。起きたことだけを見れば、どちらも一冊の途中でやめず、末尾まで読んだのである。
それなのに二つを並べると、私には本の厚みが少し違って見える。「読み終える」は、読むという行為に終点を置く言い方である。「本」を主題にしてみると、焦点の置き場がさらに分かる。
「この本はもう読み終えた」は、その本を既読の側へ移す報告として自然で、話題の中心は本の現在の位置に寄りやすい。これに対して「この本はもう読み切った」は、同じ本を指しながらも、それを通して読んだ人の動作が前へ出る。
何を読んだかだけでなく、誰が読むことを完遂したかがわずかに目立つのである。目的語は同じでも、後ろにつく動詞によって、本の状態と読み手の動作のどちらが前景化するかは変わる。
「昨日、この本を読み終えた」と言えば、それまで続いていた読書が昨日完了したことが伝わる。いつ終わったのか、次の本へ移れるのかといった、完了後の側へ話を進めやすい。
一方、「読み切る」には、最後まで通した感触が出やすい。「切る」は、使い切る、走り切るという言い方にもつく。残りを途中に置かず、用意されていた分や区間のすべてをやり通す。
その働きが「読む」につくと、終点だけでなく、そこへ至るまでにあった分量も表へ出てくる。その違いは、ページ数を添えると見えやすい。「長い本を読み終えた」なら、長かった読書が完了したことに重心がある。
「長い本を読み切った」とすると、長さが完了の報告だけでは済まず、読者が越えたものとして残る。最後のページは同じでも、「切る」のほうは、それ以前のページまで一緒に連れてくる。
難しい本についても似たことが起こる。「難しい本を読み終えた」には、ひとまず末尾まで到達したという落ち着きがある。「難しい本を読み切った」には、分かりにくさに何度か足を止められながら、それでも先へ進んだ様子が加わる。
文中に努力とは書かれていなくても、少し踏ん張った跡が見えるのである。ただし、「読み切る」がいつも苦労を意味するわけではない。続きが気になり、勢いのまま一冊を読み切ることもある。
その場合に越えたのは難しさではなく、残っていたページの量である。「切る」が示すのは苦戦そのものではなく、途中を残さなかったという全体性なのだろう。
反対に、「読み終える」に手応えがないわけでもない。長く読み続けてきた本なら、「ようやく読み終えた」だけで十分に重さが出る。「ようやく」や「ついに」が経過を引き受ければ、「終える」は大きな達成にもなる。
二つの動詞の差は、文脈を押しのける決まりではなく、何も添えないときに視線を向けやすい方角の差である。「最後の一行まで読み切る」という言い方にも、その方角がよく現れる。
ここで大切なのは、読書が終わった時刻ではない。飛ばした箇所を作らず、書かれている範囲を最後まで受け取ったことだ。「まで」と「切る」が重なることで、本の末尾よりも、抜けなく読んだ範囲のほうが強くなる。
否定形にすると、違いはさらに細かくなる。「読み終えられなかった」なら、読書が完了しなかったという事実がまず残る。「読み切れなかった」と言えば、分量が多かったのか、内容が難しかったのか、集中が続かなかったのか。
読んだところと、まだ残っているページとの釣り合いまで表に出る。
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