WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE
武岡 隆ブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。
「時々」の二度目の「時」は、なぜ濁るのか
「時々」という表記には、少し妙なところがある。同じ「時」を重ねた語なのに、読むときは「ときとき」ではなく「ときどき」になる。二度目だけ音が濁る。
もっと細かく見ると、二度目の「時」という字は、そこに書かれていない。置かれているのは「々」である。タイトルで「二度目の『時』」と呼べるのは、この記号が直前の漢字をもう一度用いることを示しているからだ。
「々」は踊り字と呼ばれる。漢字のような姿をしているが、それ自体に固有の読みがあるわけではない。「時々」では「どき」、「人々」では「びと」と読むもの、と決まっているのでもない。
直前の漢字と、それによってできる語が先にあり、読みは語全体から決まる。ここで私が気になるのは、「繰り返す」という働きの範囲である。字面だけを見れば、一度目と二度目は同じ漢字だ。
ところが、音までそのまま複製されるとは限らない。「々」が繰り返しているのは漢字であって、その発音ではない。「時々」の「どき」や「人々」の「びと」では、後ろの要素の最初の音が濁る。
これは連濁と呼ばれる変化である。「とき」と「とき」、「ひと」と「ひと」を組み合わせた形が、それぞれ「ときどき」「ひとびと」として読まれる。ただし、同じ「々」を使えば必ず濁るわけではない。
「山々」は「やまやま」であり、「年々」は「ねんねん」である。「国々」は「くにぐに」と濁る。同じ記号が置かれていても、後半の読み方は一様ではない。
「々」の形から、濁るか濁らないかを判断することはできない。つまり、紙面では一つの仕組みでまとめられているものを、読む側は語ごとに別々に扱っている。
「時+々」を見て、まず「時」を二回読んでから二度目を濁らせているというより、「時々」という語を「ときどき」と受け取っている。その読みの中に連濁がすでに含まれている。
この順序を逆に考えると、「々」が「どき」という音を持っているように見えてしまう。実際には、「々」は濁点を背負った「時」の代用品ではない。「人々」に移れば「びと」になり、「日々」では「び」になり、「山々」なら「やま」になる。
左側の字だけでなく、できあがる語まで見なければ読めない記号である。文字の反復は目に見える。同じ漢字がもう一度現れることを、「々」が一つの形で引き受けている。
一方、音の側では、二つの要素が並んだことで変化が起こりうる。表記は同一性を示し、発音は組み合わせの影響を受ける。両者は同じ「繰り返し」の中にありながら、同じ動きをしていない。
「時々」「人々」「山々」を同じ大きさで紙面に並べ、二文字目だけに目を向けてみる。三語の二文字目は、どれもまったく同じ「々」である。濁る二語だけ線が増えるわけでも、「山々」の記号だけ別の形になるわけでもない。
「々」の右肩や下部を見比べても、その差を知らせる印は一画もない。ところが声にすれば、二度目の入り口は「どき」「びと」「やま」と三つに分かれる。
一文字目を隠して「々」だけを残せば、どの音になるかを選ぶ手掛かりは紙面から消える。一文字目を戻しても、それぞれの字形だけから連濁の有無を一律に振り分けることはできない。
見た目では等しく反復を示す三つの記号が、声の上では二つの濁りと一つの清音に分かれる。丸で囲むなら同じ形を三度囲むことになるのに、読む耳には「ときどき」「ひとびと」「やまやま」という異なる並びが届く。
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