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武岡 隆ブログ


WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE

武岡 隆ブログ

本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。

AIが書いた比喩を、登場人物は知っているか

たとえば、電気のない土地で暮らす人物の視点から、「部屋の空気は冷蔵庫の中のように冷えていた」と書かれていたとする。比喩の意味はすぐに分かる。

冷たさだけでなく、閉じた空間の感じまで伝わる。文章だけを抜き出せば、よくできている。それでも、その人物は冷蔵庫を知っているのだろうか、と私は引っかかる。

これは比喩の巧拙とは別の問題である。冷蔵庫を知らない人物にも、冷たさは分かる。寒さに身を縮めることもあるだろう。

ただし、その感覚を冷蔵庫へ結びつけることはできない。たとえの材料が、その人物の暮らしの外にあるからだ。AIが生成する比喩には、一文の中ではきれいに働くものがある。

何と何を似せれば読み手に伝わりやすいかという点では、感心することもある。一方で、その語彙を誰が選んだのかというところまで見ると、急に収まりが悪くなる。

文章を書いたAIは知っている。読み手も知っている。だが、登場人物だけが知らない。

ここでは、表現の出来と語り手の一貫性を分けて考える必要がある。比喩が鮮明か、ありふれていないか、文の調子に合うか。それらは表現についての確認である。

それとは別に、いつの時代の、どんな環境にいる誰の視点なのかを確かめなければならない。前者で高く評価できる一文が、後者では採用できないこともある。

もっとも、登場人物が知らないものを比喩に使えば、いつでも誤りになるわけではない。人物から距離を取った語り手が、その人物の生きる時代にはない物を持ち出す書き方もできる。

そこで働くのは登場人物の知識ではなく、語り手の知識である。難しいのは、三人称でありながら、一人の人物の見聞や感覚に寄り添って進む文章だ。文法上は「彼」や「彼女」と書かれていても、何を見るかはその人物に預けられている。

その途中で、本人が知りえない比喩が一つ入ると、視点だけが別の場所へ移ってしまう。代名詞を見ても、誰の比喩なのかは決められない。知っているかどうかも、単純な二択ではない。

名前だけ聞いたことがある。絵で見たことはある。実物に触れたことがある。

日々使っている。同じ物でも、人物との距離によって比喩の自然さは変わる。海を見たことのない人物が「海」という語を知っていても、波の細かな動きを当然のようにたとえへ使えば、知識の置き方を確かめたくなる。

反対に、人物の職業や土地に関係する語を入れれば一貫する、とも限らない。船に乗る人物が何でも潮や錨にたとえ、パンを焼く人物が何でも生地や窯にたとえ始めると、今度は設定を示す札のようになる。

人物が知っている語と、その場面で実際に選びそうな語は同じではない。AIと創作について考えるとき、生成された比喩の巧さは目につきやすい。だから私は、比喩の「ように」や「まるで」の後ろにある名詞をいったん見る。

それを知っているのは、作者なのか、語り手なのか、登場人物なのか。そこで答えが分かれたら、一文の美しさだけでは決めない。冷蔵庫を知らない人物の文なら、その冷蔵庫はいったん外す。

そして、その人物が日々触れているものの中から、冷たさを言い直せるかを探す。比喩が少し目立たなくなっても、登場人物の視点はその場に残る。

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