WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE
武岡 隆ブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。
「私は無邪気だ」と言いにくい理由
「私は無邪気だ」という一文には、少し落ち着かないところがある。「私は元気だ」「私は素直だ」なら、そのまま受け取れる。ところが無邪気だけは、自分で自分に付けた途端、ほんとうだろうかと確かめたくなる。
漢字だけを見れば、「邪気が無い」と書く。ずいぶん強い字面である。それに対して、実際にこの言葉が置かれやすいのは、「無邪気な笑顔」や「無邪気に喜ぶ」といった明るい場面だ。
疑いや企みがなく、目の前のものへそのまま反応しているように見える。そこではたしかに褒め言葉として働いている。それでも、自分が企んでいないことを自分で知っているだけでは、無邪気とは言い切れないらしい。
企みがないと申告することと、周囲からそう見えることは同じではない。「私は無邪気だ」と言う人の発言に計算がある可能性を、聞き手は消せない。無邪気は、本人の内側だけでは完成しない言葉なのだと思う。
子どもに使う場合、この引っかかりはあまり表へ出ない。知らないこと、疑わないこと、結果まで見通さないことが、年齢とともに受け止められるからだろう。
大人に対する「無邪気な人」には、親しみと同時に、危うさが混じることがある。屈託のなさを褒めているのか、周囲への影響に気づかない人だと言っているのか、一語だけでは決まらない。
「無邪気な笑顔」はほぼ笑顔の持ち主を好ましく見せるが、「無邪気な質問」は別である。質問した側に悪意がなくても、答える側が触れられたくないところへ届くことがある。
このときの無邪気は、質問をやさしくするとは限らない。むしろ、相手がためらいなく踏み込んだことを示すため、痛みをはっきりさせる場合さえある。似た位置にある「悪気はない」と比べると、違いが見えやすい。
「悪気はなかった」は、行為をした本人も口にできる。自分の意図について説明する言い方だからである。一方、「無邪気だった」は意図だけでなく、その人が何を知らず、何を疑わずにいたかまで眺める言葉になる。
悪意の不在を伝えるだけではなく、見えていなかった範囲まで含んでいる。そのため、無邪気という評価は、行為の結果を帳消しにしない。「無邪気に言った」の後には、言われた側の困惑も置ける。
むしろ両者は同時に成り立つ。言った人は傷つけるつもりがなかった。それでも相手は傷ついた。
無邪気は、その食い違いを片方へ寄せずに書ける言葉でもある。一人称でも、「あの頃の私は無邪気だった」なら、それほど不自然ではない。現在の自分が過去の自分を少し離れたところから見ているからだ。
何も知らずに喜んでいた、先のことまで考えずに尋ねていた、と後から分かったとき、話している私はすでに当時の外側にいる。現在形の「私は無邪気だ」とは、見る位置が違う。
「無邪気に尋ねた」は「尋ねた」という行為の様子を修飾し、「無邪気だった」は過去の自分を現在から振り返る。どちらも評価の対象と語る位置を離せる。
一方、「私は無邪気だ」は現在形で、自分の性質を自分自身がその場で保証する形になる。この文法上の近さも、自己申告を落ち着かなくさせる。だから、「無邪気に尋ねた」「あの頃の私は無邪気だった」とは言えても、現在の自分を示す「私は無邪気だ」だけは、口にした瞬間にその言葉の自然さを失いやすい。
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