WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE
武岡 隆ブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。
「言葉」という言葉は、どこまでを指すのか
「言葉」という語は、指している範囲がなかなか定まらない。「その言葉が気になった」と言えば、一つの単語を指すようにも聞こえる。ところが「うまく言葉にできない」となると、単語一つの問題ではない。
考えていることを文に組み立て、相手へ渡せる形にするところまで含んでいる。同じ「言葉」が、急に広いものになる。私が引っかかるのは、意味がいくつもあることではない。
範囲が変わっているのに、会話の中ではそれほど困らないことである。「一つの言葉を選ぶ」なら、候補から一語を選ぶ様子が浮かぶ。「言葉を尽くす」なら、一語ずつ増やすというより、説明の角度を変えたり、理由を補ったりすることを思う。
数えられる部品にもなり、話す行為の全体にもなる。「言葉が足りない」という言い方も、単純な文字数不足とは限らない。長く話していても足りないことはあるし、短い一文を加えただけで足りることもある。
欠けていたのが説明なのか、配慮なのか、結論なのかは、この表現だけでは分からない。それでも、何かが相手へ届く手前で途切れていることは伝わる。反対に、「余計な言葉だった」と言うとき、その余計さは量ではなく、一か所に宿ることがある。
全体としては短くても、ある一語や一節が相手との距離を変えてしまう。一方、「言葉が多すぎる」なら、文や説明のまとまり全体が対象になりやすい。「言葉」は部分を指しながら、部分が生んだ印象まで引き受けている。
「単語」と置き換えると、範囲はかなり狭くなる。「発言」なら、誰かがある場で述べたまとまりが前に出る。「表現」には、内容そのものより、どう表したかという見方が加わる。
「言葉」はそれらのどれとも重なるが、境目をはっきり決めない。「その言葉」という指示さえ、名詞一語なのか、一文なのか、言い方全体なのかは前後に任されている。
この曖昧さは、正確に直したい場面では扱いにくい。文章について「言葉が強い」とだけ言われても、どこをどう変えるのかは分からない。語句が強いのか、断定する文末が強いのか、書き手の態度が強く見えるのかを分けなければ、修正には進めない。
「言葉」は便利であるぶん、具体的な箇所を覆ってしまうことがある。それでも、まだ分析できていない感触を示すには、この広さが役に立つ。「内容が間違っている」とまでは言えない。
特定の一語だけが悪いとも決められない。それでも、読んだときに何かが引っかかった。そういう段階では、「言葉が強い」という少し粗い捉え方のほうが、感じたことを捨てずに置いておける。
曖昧だから不十分なのではなく、まだ分けていない状態に合っている。「言葉にする」という表現では、その性質がさらに分かりやすい。言葉にする前の考えには、単語や文の境界がない。
それを何語にしたかではなく、外へ出せる形になったかどうかを言っている。ここでの「言葉」は完成した部品の名前ではなく、形を与える側の名前に近い。
だから「どの言葉ですか」と確かめたとき、答えが一語で返ってくるとは限らない。「この文全体」かもしれず、「断定している感じ」かもしれない。「言葉」という言葉の指先は、最初から一点を指しているわけではないのである。
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