WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE
武岡 隆ブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。
章の終わりが、ページの途中に残す余白
章の最後の一文が、ページの上半分で終わることがある。その下には、本文と同じ紙でありながら、文字の置かれていない部分がまとまって残る。私が気になるのは、そこを読む必要はないのに、読み飛ばすこともできない点である。
行の途中にある空白なら、語と語を分ける働きとして見える。段落のあとの一行なら、話の切れ目だと受け取れる。章末の下に残る空きは、それらより大きい。
何も書かれていないため、意味を一字ずつ追うことはできない。それでも最後の行からページの端までを目に入れ、次のページへ手を移すことになる。この空きは、章そのものが短いから生まれるとは限らない。
長い章であっても、最後の数行が新しいページへ送られれば、そのページの途中で閉じる。つまり、目の前にある白い面積は、章の分量をそのまま示しているわけではない。
文章の長さと、一枚の紙への収まり方が重なった結果である。ただし、単なる余りとも言い切れない。次の章を同じページの続きから始めれば、その部分には見出しと本文を入れられる場合がある。
それをせず、新しいページから始める組み方を選ぶと、空きは章どうしを離すものになる。文字を置かなかった場所が、前の章に属するのか、次の章のために確保されたのかは判然としない。
その決まらなさも面白い。もし章題が数行の空きを挟んですぐ下に現れれば、読者は一枚のページの中で次へ進める。区切りはあっても、動作は途切れない。
一方、次章が次のページから始まる場合、続きへ行くには必ず一度めくらなければならない。章末の空きは、内容を説明せずに、その動作が必要になる位置を作っている。
句点も章の終わりを示す。章番号や飾り罫が置かれることもある。それらは目に見える記号である。
ページ途中から下端まで続く空きは、何かを加えて終わりを告げるのではなく、次の文字を置かないことで終わりの範囲を広げる。最後の句点だけなら点で終わるところを、その下の面まで章末として感じさせるのである。
読者は、その面積を上から下まで丁寧になぞるわけではない。視線は最後の行で止まり、残りが空いていることをまとめて確かめる。それでも、最終行のすぐ下に次章の題がある場合とは、ページを離れるまでの手順が違う。
読書の速度を文章だけが決めているのではなく、どこに次の文字が現れるかも進み方に関わっている。もちろん、章末の空きが常に長い休止を生むわけではない。
先が気になれば、すぐにめくられる。紙面に大きな空きがあっても、読む人の歩みを必ず遅くできるわけではない。ここで作られているのは休ませる命令ではなく、止まれる箇所なのだと思う。
電子書籍では、文字の大きさや画面の寸法によって行の収まりが変わることがある。その場合、章の最後が画面のどこに来るかも一定ではない。紙の本で章末がページ途中に置かれると、文字のない部分まで含めた一枚が、その版の形として残る。
文章が同じでも、区切りが占める面積は同じとは限らない。本の余白というと、文字の周囲を囲む上下左右の部分を考えやすい。章末の下側は少し性質が異なる。
読み始める前から用意された縁ではなく、文章がそこで閉じたために現れるからである。先にあるのは空きの形ではなく、最後の一文の位置だ。その位置によって、残る広さが決まる。
その広さには、読み終えた文章と、まだ始まっていない文章との距離が、紙の上のかたちとして残る。
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