WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE
武岡 隆ブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。
同じ道を、行きと帰りで二度書く
物語の中で人物が同じ道を往復するとき、帰りの道をどこまで書くかが気になる。行きですでに描いたのだから省いても筋は通る。だが、出来事の前と後で同じ場所を通るなら、道は人物の変化を見せるための、かなり正確な比較になる。
ここで道そのものを変えてしまうと、比較はぼやける。たとえば、門を出て、ひびの入った舗装を越え、自動販売機の前を通り、歩道橋を渡る道があるとする。
帰りにも同じ物を置く。雨を降らせたり、看板を倒したりして、外側に変化を引き受けさせない。往復には、それだけで一つ明確な違いがある。
目印の現れる順序が逆になることだ。行きが、ひび、自動販売機、歩道橋なら、帰りは歩道橋、自動販売機、ひびになる。この反転があるため、すべてを詳しく説明し直さなくても、読者は同じ道だと確かめられる。
行きでは、目的地へ向かう動作を前に出せる。「ひびをまたぎ、自動販売機の前を抜け、歩道橋を上がった」と書けば、三つの目印は移動の途中に収まる。
人物の目は道を見ているが、立ち止まってはいない。動詞も、またぐ、抜ける、上がると先へ進む。帰りでは、同じ目印に別の時間を与える。
「歩道橋を下りる。自動販売機の価格を上から一つずつ追う。ひびの手前で、右足を出し直す」。
道に新しい物は増えていない。それでも、自動販売機の前にいる時間と、ひびを越えるまでの半歩が長くなる。この長さを、そのまま悲しさや迷いの符号にする必要はない。
つらい出来事のあとほど足早になる人物も書けるし、安心したために初めて周囲を見る人物も書ける。遅いから沈んでいる、速いから晴れている、と決めると、歩き方が感情の略号になってしまう。
何が起きたかは前の場面が受け持ち、帰り道は行きとの差だけを示せばよい。目に留める物も、出来事を象徴する品でなくてよい。価格の数字、階段の段数、舗装のひびのように、そこにあった物へ注意が引っかかるだけで十分な場合がある。
重要なのは、その物に深い意味があることではなく、行きには通過した場所で、帰りには人物の時間が少し滞ることだ。反対に、帰りを短くする方法もある。
たとえば往路で「郵便受け、白い柵、角の電柱」と並べたのに、帰路を「門まで戻った」だけで切れば、読者にはどの道を通ったかを照合する手掛かりがない。目的地で場面が一区切りつき、帰路の途中にも行動や距離の記述がなければ、その一文は足早さより、次の場面へ運ぶ要約として読まれやすい。
対して「白い柵には目も向けず、門まで戻った」とすれば、白い柵の再登場が往路との重なりを固定する。拾わなかった郵便受けや電柱まで無意識に補われ、省略が経路の変更ではなく、人物の通過の速さとして働く。
行きで一つずつ書いた目印を、「歩道橋を下り、あとは振り返らず門まで戻った」と畳む。速さは文の内容だけでなく、目印をいくつ拾うかにも現れる。ただし全部を省くと、単なる場面転換に見えやすい。
行きと同じ語を一つ残せば、帰路が同じ線上にあると分かる。私なら、往路と帰路の両方に「ひびの入った舗装」を置く。行きでは人物にまたがせ、帰りでは右足を一度出し直させる。
出来事を経て何を思ったかは書かず、その足がひびを越えたところで道の場面を閉じる。
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