WORDS / MEMORY / EVERYDAY LIFE
武岡 隆ブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆自身の言葉で静かに綴ります。
音のない雪が「しんしん」と降る
「しんしんと雪が降る」という表現は、少し妙である。雨なら「ざあざあ」や「ぱらぱら」と、実際に聞こえる音とのつながりを考えやすい。雪には、そうしたはっきりした音がない。
それなのに「しんしん」という四拍を添えると、雪の降り方が急に具体的になる。「しんしん」は、雪の一片が何かに触れた音ではない。空から地面までの途中で鳴っているわけでもない。
音を写していないのに、声に出せば音として雪の横に置かれる。このずれが気になる。雪だけを説明するなら、「絶え間なく降る」「細かく降り続く」と書くこともできる。
こちらは降り方の情報として分かりやすい。ただ、「しんしんと降る」から受け取るものは、降る量や速さだけではない。雪の周囲まで、ひとまとまりにしているように感じられる。
「しんとする」と言えば、動きの止まった状態が浮かぶ。音が途切れ、その場が固定されたような「しん」である。一方、「しんしん」は同じ形を二度重ねている。
二度目があるために、止まっているはずのものへ時間が入り込む。雪は動いているのに、あたりは動きを止めたように見える。「しんしん」は、その二つを同時に扱える。
雪片が落ちてくる運動と、物音の乏しい状態が、一つの表現の中でぶつからない。むしろ、雪が降り続けるほど、周囲が動かなくなったように感じられる。
ここで表されているのは、一片の雪ではないのだと思う。一片だけなら、落ちた瞬間を見届ければ終わる。「しんしん」には、次の雪、その次の雪まで含まれている。
どれか一つを目で追うというより、入れ替わりながら同じ降り方が保たれている状態に似合う。そのため、「しんしんと降った」と過去の出来事として読んでも、文の中には長さが残る。
降ったという事実だけでなく、降っているあいだが省略されない。「降り続く」と明記しなくても、反復する二つの「しん」が途中を受け持っている。さらに、この語は目で見える範囲の外まで広がる。
「雪が降る」だけなら、視線は空や雪片へ向かう。「しんしんと」が付くと、見ているのは雪でありながら、同時に雪のない軒下や建物の内側にも同じ冷えが届いているように感じられる。
実際の温度を示しているわけではない。それでも「しんしんと冷える」という言い方とも響き合い、降雪と冷えが離れにくくなる。反対に、雪が激しく舞い、視界を奪う場面では、「しんしん」だけでは足りないことがある。
風の強さや雪の荒さが前に出れば、別の表現が必要になる。この語が似合うのは、雪の勢いを大きく見せたいときではなく、降る状態が途切れず、その継続によって周囲の様子まで変わって見えるときなのだろう。
擬態語は、目の前の動作を短く言い表すものだと思いがちである。「ふらふら」なら歩き方、「きらきら」なら光り方というように、対象のそばに付く。ところが「しんしん」は、雪のそばに置かれながら、雪そのものだけには収まらない。
何が聞こえるかではなく、ほかの音がどれほど意識から退いているかまで表してしまう。「音のない雪」と「しんしん」という音は、矛盾しているようで、役割が違う。
「しんしん」は雪が立てる音の代わりではない。雪が一片ずつ入れ替わっても終わらない時間と、そのあいだに雪の周りへ広がっていく静けさや冷えを、四拍にして添えている。
新しい記事をメールで受け取る
武岡 隆の新しい文章が公開されたとき、メールで静かにお知らせします。
登録料・購読料はかかりません。メールアドレスはブログ更新通知のためだけに使用します。いつでも解除できます。